G19. agathosune 善意→本質的な善

 本質的な善、特に類い稀な質と状態において良いこと。信者に関して、神から来るものであり、霊的に示される優れた道徳的徳。

ローマ

15:14 私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。

 互いに訓戒し合うことができることを確信していました。彼ら自身が善にあふれ、知識に満たされていて、それができると確信したのです。「善」は、良い霊的な徳を現していることで、模範です。そして、訓戒し合うためには、御言葉に関して知識に満たされていることが必要です。

 なお、「善意」では、人や物に対する心の思いだけのことで、本来の意味の神の前に優れて良い徳を現すこととはかけ離れています。

・「善意」→他人や物事に対して持つ、よい感情・見方。好意。(日本語の意味)

・「善意にあふれ」→善にあふれ。

ガラテヤ

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

「愛」→原語ではアガペーで、御霊による完全な愛です。これは、御霊によって、信者は、アガペーの愛を現す者になることが示されています。

「喜び」→神の恵みにたいする認識のことです。その喜びは、神様を知り、その恵みを知ることで与えられるものです。

「平安」→平安と訳されている語は、「神の御心を知り行うことでもたらされる神の賜物としての完全さ」です。

 寛容、親切、善意は、他の人に対する関係として出てきます。

「寛容」→怒りを表す前に十分な時間待っていること。

「親切」→人間的な冷たさを避け、必要に応える。

「善意」→「善」本質的なたぐい稀な善。心の思いでなく、良いことを現すこと。

5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 誠実、柔和、自制は、その人の性質して現れるものです。

「誠実」→信仰。

「柔和」→優しい力。抑制と優しさを持った力。

「自制」→内面から支配された振る舞い。

エペソ

5:8 (なぜならば)あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。

 以前の闇は、教えのない状態です。主にあって光となったことは、主にあって教えられたことで、その教えは、主が父の御心だけを行われて歩まれ、いのちのうちに歩まれたことです。それと同じ歩みをする者とされています。主と同じように歩む者として光の子どもなのです。

ヨハネ

1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

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5:9 (なぜならば)あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。

 光の実が結ばれるのは、あらゆる善と正しさと、神の御心としての真理を行うことによります。

・「善意」→本質的な善。

・「正義」→神が承認する正しさ。

・「真実」→真理。神の御心を行うこと。

テサロニケ第二

1:11 こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

 私たちは、主の栄光に与る者となるのですが、主の来臨は、評価の裁きでもあります。それは、私たちがこの地上でなしたことに対する報いの与えられるときであるのです。それで彼は祈っています。

一、神がお召しにふさわしいものとしてくださること。

 召された者は、神の子です。それにふさわしい者となるのです。神の前に出るのに私たちがぼろをまとっていてはいけないのです。そのような古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着なければならないのです。キリストと同じ者に変えられることが召の目的です。

二、また、御力により善を慕うあらゆる願いを全うしてくださるように。

 善は、御心にかなう良いことです。テサロニケの人たちは、善を慕っていました。心から進んでそのことを求めていたのです。それを神様が完全にかなえてくださることを願いました。善を慕う願いは、その人自身に依存しています。その人自身が求めないと、御心に適った歩みは、出て来ないのです。

三、御力により、信仰の働きを全うしてくださるように。

 神様の御言葉を信じて従うとき、それを全うしてくださるのは、神様の働きです。私たちが神のさまにまで変えられるために、神は全能の力で働いておられます。私たちは、御霊によりキリストが私たちのうちに住まわれると信じるのです。そして、キリストの愛を知ることで私たちは変えられるのです。私たちを変えるのは、キリストの働きです。神が全能の力でそれを実現されます。エペソ書より。

 「働き」とありますが、私たちの奉仕が全てではありません。私たちがキリストと同じ者に変えられる時、奉仕の働きは、その一部です。まして、公の奉仕は、ごく一部のことです。神の御心を行うという「働き」は、もっと広いのです。私たちの全ての信仰による振る舞いが含まれます。